智恵子の人物像

長沼智恵子は口数が少なくあまり社交的でなかったという。太平洋洋画研究所にいたころは、周囲の人間にとって近づきがたい雰囲気があったようだ。

「ふだんに銘仙の派手な模様の着物をぞろりと着ている。その裾は下駄をはいた白い足に蓋いかぶさるようだ。それだけでも女子大の生徒と伍していれば異様に見られるのに、着物の裾からいつも真赤な長襦袢を一二寸もちらつかせているから、道を歩いていると人が振り返って必ず見てゆく」

「話ぶりは物静かで多くを言わない。時々因習に拘泥する人々を呪うように嘲笑する」

「彼女は言った。世の中の習慣なんて、どうせ人間のこしらえたものでしょう。それにしばられて一生涯自分の心を偽って暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしが決めればいゝんですもの」(以上、津田青楓「漱石と十弟子」)

また一方、思いもかけない強さを見せることもあった。智恵子の絵にエメラルドグリーンが多く使われているのを見かねた油絵の教官が、「どんな色で描いてもいいがエメラルドグリーンは不健康だ」ととがめると、教官の目の前でさらにエメラルドグリーンを濃くしたという。

女性としては無造作な服装をしたり、女性解放運動の先鋒であった雑誌「青鞜」に関わったりしていたことから、周囲は色々と好奇心から噂をしたが光太郎はこれは誤解だと言う。

「当時のゴシツプ好きの連中が尾鰭をつけていろいろ面白さうに喧伝したのが因であつて、本人はむしろ無口な、非社交的な、非論理的な、一途な性格で押し通してゐたらしかつた」(「智恵子の半生」)

物事に熱中しやすい気質でもあった。女子大在学中からテニスや自転車に熱中し、乗馬など好きなテーマであれば男相手でも何時間も話しまくった。

自分の打ち込む道(特に絵画)には全く妥協がなかったようである。

「中途半端の成功を望まなかつたので自虐に等しいと思はれるほど自分自身を責めさいなんだ」(「智恵子の半生」)

智恵子が油絵の具をうまく使いこなせないことで悩み、時々画架の前で一人涙を流しているのを光太郎は時々見たという。

「彼女はやさしかったが勝気であつたので、どんな事でも自分一人の胸に収めて唯黙つて進んだ。そして自己の最高の能力をつねに物に傾注した。芸術に関する事は素より、一般教養のこと、精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考へて、曖昧をゆるさず、妥協を卑しんだ」(「智恵子の半生」)

光太郎と智恵子の出会い

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高村光太郎 朗読 / 智恵子抄
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