昭和10年2月、もはや自宅療養が困難となり光太郎は智恵子を南品川ゼームス坂病院に入院させる。
入院後、智恵子の症状は一進一退するが、自宅にいる時のように凶暴性はなくなったという。だが精神の変調に加えて結核が智恵子の体を蝕みはじめていた。
一方で智恵子は切抜絵の製作に夢中になり、その造形・色彩の豊かさで光太郎を驚かせる。
昭和12年からは智恵子の姪の春子が付き添うようになるが翌13年10月5日、智恵子は帰らぬ人となる。
智恵子が入院した南品川ゼームス坂病院は、現在のJR大井町駅東口のゼームス坂通りの中ほどにあった。
【ゼームス坂】の名の由来はイギリス人ジョン・M・ジェームスで、坂本竜馬とも交流のあった人物である。
以前は浅間坂(せんげんざか)と呼ばれたかなりの急坂だったものを坂下に住んでいたジェームズが私財を投入して今のゆるい坂に整備した。
ゼームス坂病院はその中ほどに建っていたが戦後間もなく取り壊された。その跡地には現在「レモン哀歌の碑」が建っている。