智恵子の死

智恵子が永眠したのは昭和13年10月5日。その日、電報で呼び出された光太郎はお見舞いにレモンを持っていった。
 

智恵子は全く正常な様子で光太郎に自分の制作した紙絵の入った木箱を託す。
 

光太郎が智恵子にレモンを渡すと、がりりと噛んで微笑んだという。それから数時間後、智恵子は静かに息を引き取った。
 

レモン哀歌
 

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
 


今日に至るまで人気の高い「レモン哀歌」だが、やや智恵子の死を美化しすぎている感じが否めない。一種のファンタジーとも取れる。
 

光太郎にとってみれば智恵子の死という辛すぎる現実を、こういう形で描くしかなかったのかもしれない。
 

対して「荒涼たる帰宅」は同じく智恵子の死の直後を描いたものだが書かれたのは智恵子の死後3年を経てからである。
 

淡々としてけして飾り立てないからこそ、「荒涼たる帰宅」にはリアルな悲しみを感じる。3年の時を経て、ようやく光太郎が智恵子の死を受け入れ客観的に描くことができるようになったという感じがする。
 

荒涼たる帰宅
 

あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
智恵子は死んでかへつて来た。
十月の深夜のがらんどうなアトリエの
小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
私は智恵子をそつと置く。
この一個の動かない人体の前に
私はいつまでも立ちつくす。
人は屏風をさかさにする。
人は燭をともし香をたく。
人は智恵子に化粧する。
さうして事がひとりでに運ぶ。
夜が明けたり日がくれたりして
そこら中がにぎやかになり、
家の中は花にうづまり、
何処かの葬式のやうになり、
いつのまにか智恵子が居なくなる。
私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
外は名月といふ月夜らしい。
 


智恵子抄

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高村光太郎 朗読 / 智恵子抄
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