九十九里浜へ天地

昭和9年5月、光太郎は精神をわずらった智恵子を母や姪のいる千葉県九十九里の真亀納屋という部落に天地させる。
 

智恵子の実家の没落に伴い、智恵子の母と姪はこの部落に移ってきていたのだ。
 

また、自然の豊かな場所に行くと調子が良くなるという智恵子の昔からの性質もあり、回復を期待して天地させたのだった。
 

光太郎は智恵子を見舞うため東京の両国から毎週この真亀納屋を訪れた。
 

「午前に両国駅を出ると、いつも午後二三時頃此の砂丘につく。私は一週間分の薬や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱つぽいやうな息をして私を喜び迎へる。私は妻を誘つていつも砂丘づたひに防風林の中をまづ歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽が少し斜に白い砂を照らし、微風は風から潮の香をふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす」(「九十九里の初夏」)
 

千鳥と遊ぶ智恵子」はこの時期の状況を描いた、悲痛な詩である。
 

千鳥と遊ぶ智恵子

人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る。
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。


同年10月、父光雲が82歳で没する。光雲から分与された遺産は、以後の智恵子の療養生活を支えることとなる。
 

12月、九十九里浜から智恵子をアトリエに連れ戻す。しかし症状はどんどん悪化していき、ついに自宅療養が不可能となる。
 

ゼームス坂病院入院

リンク

高村光太郎 朗読 / 智恵子抄
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